『ヒミツ』第5巻 4近代化4
4近代化4
日本でも、ちょっと変わったことが起こっていた。
幕末、「ええじゃないか」って踊り狂う民衆があちこちで見られるようになった。
伊勢神宮や熊野大社、えびすさまから観音さまなど、
多様な寺社仏閣の「お札」や仏像が天から降ってきた。
まるで、あたらしい時代の到来を告げるかのように。
突如として下されたご神託に、お札が降ってきた家では祝いを設け、
町々では噂がかけめぐり、タダ酒やタダ飯が景気よくふるまわれ、
人々はある種の集団ヒステリーのような熱狂状態になっていったの。
男たちは女装し、女たちはは男装し、稚児たちは真っ赤なべべを着せられたりして、
それでいいじゃないか、あたらしい世の中じゃないか、って何日も踊り狂った。
当時はスマホとかSNSとかないでしょ。
各地のニュースを伝え、社会全体の変化を伝えてくれるのは旅芸人たち。
ちんどん、ちんどんしながら、盆踊りのような「歌と踊り」で
世の中の変化を囃(はや)していった。
その狂騒は四国、近畿、東海、関東と広大な地域へと広がっていった。
かなりの人数の「旅芸人たち」が手分けして国中をねり歩いていたのだけれど、
それだけの人件費はだれが負担していたのかしら?
大分県の日田市には、咸宜園(かんぎえん)という、全寮制の私塾があった。
その規模は日本最大で、トータルでは5,000人近い、
文明開化を主導する優秀な人材を輩出していった。
後に、近代日本陸軍を編成したり、大臣となったり、東京の府知事となったり、
戊辰戦争の主導者、国会議員、国学の権威、詩歌といった芸術分野のリーダー、
総理大臣、いろんな大学の創設者たちなど、そうそうたる基幹人材たちが
全国から集められ、「身分の垣根を超えた教育」を受けて、巣立っていった。
咸宜園は、ある意味、国最大の「近代的な教育機関」だったのよ。
日本が「近代」になる前から、近代化に必要な人材の育成が、
今風の言葉で言うと欧州パブリックスクールと同じ近代的な手法で、
着々と進められていたの。
倒幕後に必要な人材たちが、まさに天領(=幕府直轄地)の日田という、
江戸からは遠く離れた場所で目立たぬよう、大規模に事前育成されていた。
あなたはここに、なにを感じ取るかしら?
とうてい貧しい庶民たちの授業料ではまかなえそうにない、
その巨額な運営費用はだれが負担していた?